ある絵本の一文に、私は釘付けになりました。
この一文を目にしたときの衝撃は、今でも本当によく覚えています。
小さい頃、私はよく泣く子供でした。
「自分の思い通りにいかない」ということが、不思議でたまらなかったのです。
解消されない疑問が、不満となって爆発した現象。それが私にとっての「泣くこと」でした。
けれども泣いたところで疑問が解決するわけではないし、すべてが自分の心地よいようにいくはずもありません。
様々な経験を経てそれをうすうす理解していたからなのか、一旦泣き出すとなかなか泣きやむことができませんでした。行き場のない不満を悲しみに変えて外に出しきらないと、おさまらなかったのだと思います。
だから私は、この「なきつかれ」るという感覚をよく知っていました。なきつかれた後にねむくなる、という感覚も。
顔の真ん中あたりはじわりと熱く、まぶたの裏はだるくなって、心地よい重みがゆっくりと後ろから襲ってくるような、あの甘く優しい感覚。それを本当に、身をもってよく理解していました。
この一文を見たときに、「ああ、あれか」と即座に自分の経験を呼び起こすことができました。
体の外に書かれた文章と、体の内に刻まれた感覚。
そのふたつが、とてもきれいにつながった瞬間でした。
その後で思ったことが、「どうしてこれを書いた人はあの感覚を知っているんだろう」ということ。
そしてその疑問と同時に出た答えが、「人は同じ感覚器官を持っているのだ」ということ。
よろこび、かなしみ、しあわせ、がっかり。
そうした言葉の向こう側には、私以外の誰かの経験と感情がひそんでいる。
そしてこの私自身も、その言葉で表現できるだろう経験の可能性を持っている。違う人間、違う体なのに、同じ感覚を共有しているから、伝わる。理解できる。つながれる。
もちろん、こんなにはっきりと言葉で認識したわけではありません。あのとき私の中に生まれたのは、小さな驚きと、大きな喜びでした。
言葉というものの力や凄さを知ったのも、この瞬間だったと思います。
今思えば、私はあのとき、言葉の魔力に魅入られてしまったのかもしれません。
小さな私をとらえたあの感覚――「つながった」驚きと喜びを、ここにはいない誰かに届けたい。
私が小説を書き始めた背景には、そんな思いがあったのだと思います。
人は、言葉でつながることができる。
不安や不満、孤独や恐怖をかかえている人たちに、言葉の力で、驚きと喜びを届けたい。
そんな気持ちを大事にして、書き続けていきたいと思っています。