つながりたいから

2022年1月1日土曜日

雑記

※デビュー前、カクヨムに載せていた文章に加筆したものです。初心を忘れないために。

 三歳か、四歳くらいのときのことです。
 ある絵本の一文に、私は釘付けになりました。
 この一文を目にしたときの衝撃は、今でも本当によく覚えています。


「おひめさまは、なきつかれてねむってしまいました。」


 小さい頃、私はよく泣く子供でした。

「自分の思い通りにいかない」ということが、不思議でたまらなかったのです。

 解消されない疑問が、不満となって爆発した現象。それが私にとっての「泣くこと」でした。


 けれども泣いたところで疑問が解決するわけではないし、すべてが自分の心地よいようにいくはずもありません。

 様々な経験を経てそれをうすうす理解していたからなのか、一旦泣き出すとなかなか泣きやむことができませんでした。行き場のない不満を悲しみに変えて外に出しきらないと、おさまらなかったのだと思います。


 だから私は、この「なきつかれ」るという感覚をよく知っていました。なきつかれた後にねむくなる、という感覚も。

 顔の真ん中あたりはじわりと熱く、まぶたの裏はだるくなって、心地よい重みがゆっくりと後ろから襲ってくるような、あの甘く優しい感覚。それを本当に、身をもってよく理解していました。

 この一文を見たときに、「ああ、あれか」と即座に自分の経験を呼び起こすことができました。

 体の外に書かれた文章と、体の内に刻まれた感覚。

 そのふたつが、とてもきれいにつながった瞬間でした。


 その後で思ったことが、「どうしてこれを書いた人はあの感覚を知っているんだろう」ということ。

 そしてその疑問と同時に出た答えが、「人は同じ感覚器官を持っているのだ」ということ。


 よろこび、かなしみ、しあわせ、がっかり。

 そうした言葉の向こう側には、私以外の誰かの経験と感情がひそんでいる。

 そしてこの私自身も、その言葉で表現できるだろう経験の可能性を持っている。違う人間、違う体なのに、同じ感覚を共有しているから、伝わる。理解できる。つながれる。

 もちろん、こんなにはっきりと言葉で認識したわけではありません。あのとき私の中に生まれたのは、小さな驚きと、大きな喜びでした。

 言葉というものの力や凄さを知ったのも、この瞬間だったと思います。

 今思えば、私はあのとき、言葉の魔力に魅入られてしまったのかもしれません。


 小さな私をとらえたあの感覚――「つながった」驚きと喜びを、ここにはいない誰かに届けたい。

 私が小説を書き始めた背景には、そんな思いがあったのだと思います。


 人は、言葉でつながることができる。

 不安や不満、孤独や恐怖をかかえている人たちに、言葉の力で、驚きと喜びを届けたい。

 そんな気持ちを大事にして、書き続けていきたいと思っています。

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